昭和43年10月30日    夜の御理解



 今日の三井教会初代荒巻先生の35年の式年祭を頂いてから、もう本当にしみじみ思わせて頂いたんですけれども。確かにお徳というものは残るもんだなぁということですね。
 お互いしっかり信心をさせて頂いて、やはり子供に、そして孫に、子々孫々に、その徳が残るということ。ね(皆どうしても?)やはり信心によらなければ出来ることじゃないと思うんですね。ですから、もうこれはお互いが自分の幸せというものを願う意味合いにおいてでも、今日頂きましたね、この偲び草の短冊ですね。
 「我悪し、人の悪事を責めるより、我改まれ、人もおさまる。」こういう生き方でさえいきゃ、必ずお徳が受けられると思うですね。「我悪し、人の悪事を責めるより、我改まれ、人もおさまる。」とね、その本当にあの自分というものを見極めると、必ず我悪しということになると思うんですね。
 ですから、その人を責めるよりか自分が改まる。そこには、自分が徳を受けていくという信心が生まれると同時に、ね、人もおさまるとこう言うておられるですね。これはもう、歌そのものじゃなくてから、これが初代の信心の内容であったじゃろうと思いますですね。
 ですからもうこういうところに私共、やはり三井教会にご縁を頂いております者の、信心がですね、本気で一つやっぱそこに本気でそのことをね、私も悪いけれども、あの人も悪いといったような、じゃなくてから、もう何処までも我悪しというところまで自分を掘り下げ、追及して、ね、いくところに自分がいよいよ分からせてもらう。同時にそれだけではなくて、そこから自分が改まっていくと。
 そこには必ず私は、それこそ(なにを?)今日「いわと?」先生が仰ったように、師の信心は燻し銀のような感じとこう言うておられましたが、それこそ底光りのする、何とも言えん、後に残るものが頂けれる。それが徳である。
 ね、同時にそれが、人もおさまるとこう言うておられる。人までもそれによって、助かっていくのですから、ならここに焦点(をおく?)以外はない。今日私はそれをしみじみはー、なるほどお徳というものは残るものだなぁということを、まぁ色々なてんで実感させて頂いたんですけれどね、お前の(とめ?)さんもやっぱ、それを頂かれたであろうとこう思います。どうぞ。

梶原 佳行